2005年3月30日水曜日

「回想録Vol.8」


StingRayを買った際に、店員さんがストラップと弦を1セットおまけしてくれた。ストラップは現在でも愛用してる。物持ちいいでしょ?MusicManの皮製で、質感がお気に入り。現在なかなか欲しいストラップが無いのは、良い皮が少なくなってしまったから。弦は、その頃新潟では見たことが無かったD'addario(ダダリオ)というメーカーのもの。それまではYAMAHAかフェルナンデス(今思うと、あれはステンレスだった)、たまに奮発してロト・サウンドくらいしか使った事が無かった。パッケージを開いてみると洋銀のような美しさ。他のメーカーと異なったのは飾り糸(弦の先端と最後に巻いてある緩み防止?の為の糸)が無い。最初に張ってあった弦が死んでから、ワクワクして張り替えてみた。うん!すごい!もっとStingRayらしい音になった。輸入弦は今と違って結構高価だったが、程なくして円高になり国産弦よりリーズナブルになった。EXL-170.以後ずっと愛用してます。ところが当時、ベースアンプでツィーター(高音専用のスピーカー)を搭載してるアンプなど皆無で、このベースはとことん気難しかった。楽器自体のレンジが広すぎた。所謂相性がハッキリしてた。どうセッティングしても良い音がしない。ルイス・ジョンソンはあんなに良い音を轟かせてるのに。試奏した時はあんなに良い音がしたはずなのに。原因は、私の演奏力の未熟さが半分。アンプの性能の低さが半分。「一流」は優しくない。性能の優れた楽器は全てをストレートに表現してしまう。そう、下手に弾けば下手な音。上達すればその通りに表現する。成長させてもらった気がします。まだまだですが・・・。新しい仕事は、決して順調とはいえなかったが、1年ほどして楽器店の収入と逆転した時点で時間が不規則なので退職した。意外にも引き止められたが、決心は変わらなかった。「アメリカ流」という名のビジネスはパーティーが多かった。芸は身を助けると言うか、私は新参者にも拘らず結構重宝がられた。会場との打ち合わせや音響業者の手配、打ち合わせはお手の物だった。特にイベントのアフターパーティーや、X'masPartyなど。バンドの方は、数年間カバーが続いた。当時やってたメンバーとは、楽器店を退職した事で段々疎遠になり、新しい仕事で出会った人達と演奏するようになっていた。ビジネスの成長に伴って演奏する会場はどんどん変化していった。最初はDuo(結婚式場)だったが、次第にラシントン・カフェを貸しきるようになり、仕舞いには新潟フェイズでやるようになった。ほぼワンマンLive状態。これはこれで夢がかなった瞬間だった。人脈が豊富な仕事だったので、楽ではなかったがメンバー確保も何とかなった。もっとも大きなPartyではフェイズに530名入った。しかし、所詮イベント専用バンド。段々空しくなってきた。続く・・・。

2005年3月29日火曜日

「回想録Vol.7」


「自由になりたい!」今までにやってない事、無茶もやってみよう。まず、情報が少ない時代だったので雑誌を見て片っ端から電話した。地元の楽器店では(自分が勤めているところは問題外)用事が足りない。それこそ北海道から九州まで。流通在庫から選ぶしかない。やはり東京に在庫は集中してた。タイミング良く東京に出張が入った。YAMAHA渋谷店に1本、イケベ楽器池袋店に3本の在庫発見。研修が終わり、当時クリスタル・キングでギタリストをやっていた川上クンに連絡し、Liveを見に行く約束をした。その前に買って行こう。さて、YAMAHA渋谷店にあったのはナチュラルフィニッシュでローズ指板。う~んメイプル指板が欲しいんだよね。急いで電車に乗り、イケベ楽器へ。閉店時間が迫っていたがなんとか滑り込んだ。狭いスペースに溢れんばかりの楽器達。面食らってる暇は無い。お目当てのStingRayは・・・。あったあった!しかも3本聞いてた通り!またもや私はニヤケ顔を抑えきれず方端からチェック。良く言えば個性、悪く言えばバラつきがある。どれにしようかな?と言うより「どの娘にしようかな?」という感じ。だからニヤケる。結局、もっとも”MusicManらしい音”がする娘にした。なんか分不相応な買い物をした罪悪感と、とてつもない武器を手に入れた高揚感が何ともくすぐったい。だって何と言っても初めてレプリカではない「本物」を手に入れたんだから。88年1月に購入して、以後18年間私の大切な相棒。最近判ったんだけど、MusicManって84年にはアーニーボールに吸収合併されてたのね。で、私のは82年製って訳。そのStingRayを抱えながら川上君の待つ横浜へ。どこかは忘れたけど某LiveHouse。StingRayの選定に時間がかかってしまい、残念ながらLiveは見れなかった。ごめんね。「わざわざ新潟から来たのか?」と夜なのにサングラスの見覚えのある男性が声をかけてくれた。わぁ!ムッシュだ!「まぁ1杯呑みなよ。」とハイネケンをご馳走してくれた。と、一息ついたところで撤収するらしい。「手伝いますよ!」と張り切ったのは良いが、重~いエレピが待ってた・・・。えぇい!ボーヤになったる!我々はキーボードの方(確か今給礼さん)のマンションへ流れていった。九州出身の彼らはやっぱり焼酎。散々盛り上がった後、一升瓶をお土産にもらって川上君のアパートへ。彼は経済的には苦労してたようだけど、その目は生き生きとしていた。久しぶりの再開に会話が弾む。そのうちに朝を迎え、空腹になった1行はファミレスへ。お金が無かったのでオーダーしたのはピラフとカレー。再び彼のアパートに戻って、もう泥のように寝た。しばらくして目が覚め、時計を見たら長針と短針が重なっていた。「なんだ、まだ12時か。」ん!?まてよ!それにしてはちょっと位置がずれてる・・・。ゲッ!18:30じゃん!!!急がなくちゃ最終の新幹線に間に合わない。別れの挨拶もそこそこに電車に飛び乗った。一人新幹線のシートに座って考えた。夢を追ってるってすごいな。自分は上京できなかったけど可能性のある方の仕事に賭けてみよう。何を怖がってたんだろう?」そう思ったのだった。

2005年3月28日月曜日

「回想録Vol.6」

理想と現実の狭間で気持ちは揺れ動く。「そんな事をするために生きてるんじゃないだろ?」「そんな事やってる場合じゃないだろ?」頭の中で幾つ物言葉が行き交う。でも、ベースさえあれば強くなれた。これが弾けてる限り人とは違う自分でいる事ができた。そんな気がした。この時期に一緒にやっていたヴォーカリストは青木さんという女性で、なんと母親の知り合い。化粧品会社の美容部員で、昔はあの矢沢永吉の前座をやったことがあると言う。声量も凄い!彼女とのコンビはメンバーをチェンジしながらもしばらく続いた。最初のメンバーでは、「これで最後にしよう。」と決めていたEast&Westに応募。運良くブロック大会まで勝ち進んだ。大半が高校生のメンバーだったので毎回送迎が大変。そうそう、この時は会場が渋谷・エピキュラスだったが、なんとゲストはデビュー直前のCCB!程なくデビューし、この時はココナッツ・ボーイズと名乗っていた。この時の彼らの衣装は上半身を着崩したつなぎにカラフルなモヒカンヘア。おっかないパンク野郎かと思ったら、話してみると礼儀正しい優しい人達だった。流石だね。再結成の噂があるけど、TVにでるのかな?私は、誘われるまま楽器店に就職していた。しかし、ほぼピアノ販売100%の営業だ。この頃のこの業界は、殆んどの人が「営業」と言うと思い浮かべる事をもろにやってるところだった。給料は仲間内でも飛びぬけて安い!ノルマはあるけど歩合は無い!辛うじて音楽に携わる仕事だけど・・・。家庭内では、父親が管理職に転じたストレスから酒の量が増え、毎晩のように酒乱で暴力を振るうようになった。もはや家に帰っても気が休まるところも無い状態。僕はどうすればいい?この頃、青木さんとやっていたバンドに新しいメンバーを向かい入れた。彼は音大卒のドラマー。教員を目指していたが、その時は新潟照明という会社でバイトをしてた。なかなかの、そして久しぶりの素晴らしいテクニシャン。これを逃しちゃいけないって事で次々にLiveをやった。お陰で彼は2年続けて教員採用試験を落ちてしまった。もしかして私のせい?ごめんね・・・。変化は思わぬところから。彼と私は同じ職場に居た。責任を感じた私は、上司に彼を推薦し、彼は入社した。これでドラマーである彼が突然どこかへ行ってしまう心配は無くなった。キーボードは同期入社のエレクトーン講師。演奏力もグレードアップし、バンドは充実していった。しかし、ある日そのドラマーが一緒に乗っていた営業車の中でボソッとつぶやいた。「友人が自分でビジネスをやっているんだ。」ふーん、いろんな知り合いが居るんだね。私にはすぐに判った。あ、こいつ自分もやるつもりだな・・・。なんとか止めさせなくっちゃ。それが何かもわからずに反射的にそう思った。毎日彼の会話は変化していく。新しい世界を楽しそうに聞かせてくれる。私は焦った。どうやら私もそのビジネスに誘われてるらしい。一大決心して敵地に!?乗り込んだ。営業で断られる事には慣れていたので、自分が断る自信はあった。でも、よく聞いて見たら、そこにあったのは単純明快なアメリカのビジネスだった。誤解が大きかった分、もっと大きなカルチャーショック。窮地に追い込まれていた私には、現状を打破するには選択の余地など無い。できるかどうかわからないけどやってみることにした。この日から楽器店の仕事と二束のわらじを履くことになる。慣れない事ばかりだったが、事は動き出した。状況を変化させたくて、私はそれまで夢にまで見ていた新しい楽器を探していた。どうやらメーカーが消滅するらしい。急がなくては!そのメーカーとは「MUSIC MAN」。現在でも私の大切な相棒であるStingRayとの出会い。

2005年3月27日日曜日

「回想録Vol.5」 

この頃、もう完全に所謂「就職」には全く興味がない状態。特に出来立ての高校、しかも第1期生なので教師達は、いかに進学率を就職率をあげるか?と言う事にしか興味はないようだ。冗談じゃない。で、最後には私だけ進路未定という状態。「自営」を進路指導できる教師なんている訳ない。しかし、今流行のニートやフリーターになる訳にもいかず、急遽どこか就職できるところを探した。時は円高不況の真っ只中!OAという聞きなれない言葉が行き交い、なんの芸も無い高校生に給料を払う会社は殆んど無かった。何とか職にはありついたが、驚いたのは休みが自由に取れないこと。仕事自体は暇でもだ。思ったより僻みや妬みが蔓延してる。先輩や上司は目が死んでる。私より沢山給料だってもらってるんでしょ?なんで軽自動車乗ってるの?なんでお客が立て込むとイライラしてるの?嬉しくないの???あ~何だか高校生活に戻ったようだ。ここは私が居るべきところじゃない!コンテストで知り合った第1線のミュージシャン達は、忙しいことを心から喜び、プライドを持っていたのに何だこの違いは!?バンドは何だかんだ言って、組んでは潰しを繰り返し始めていた。ここで大きく変化していたのは、メンバーも自分で探さなくちゃいけない、選曲やアレンジもしなくちゃという、バンマスにならざるを得ない事だった。自分のことだけに集中していれば良い時期は終わっていた。でも、こんな事を続けていて自分がホントにやりたい事、方向は見えてくるんだろうか?空しい自問自答が続く。稼いだ金は殆んど楽器につぎ込んだ。転職も繰り返した。理想の自分って一体なんだ?仕事と平行してYAMAHAの音楽教室のアシスタントもやった。勉強にはなったが、しばらくすると良いように利用されてた事に気づき始める。もしかして、音楽も私の居場所じゃないのか?段々自暴自棄になってくる。この頃は家庭も大きなトラブルを抱え、一層私を悩ませた。この長い夜が明ける日は来るんだろうか・・・。続く・・・。

2005年3月25日金曜日

「回想録Vol.4」

バンド名は「佐藤弥生&チキンバスケット」。地元ではかなり知られた存在だった。当然、脇を固めるメンバーは実力者揃い。ギターの川上君は、その後あのクリスタル・キングに加入し、ドラムの関君は、今どうしてるんだろう?その他にもテクニシャンが多かった。あの頃は景気も良かったし、あちこちでイベントがあった。YAMAHAでも毎月「ハンドメイド・コンサート」なるものがあって、今となっては時効だけど打ち上げではかなり呑んだ。今までの人生であんなに呑んだ時期はないな。
あと、POPCON・ROOMってのがあって、学校が終わってから予定が無くても遊びに行くと必ず誰かがいて、タバコを吸いながら(高校生です)、段々次のコンテストのことから、将来の夢なんかも話す様になっていた。”無理だよ”とか”できないよ”なんて誰も言わない。「凄いね。やってみよう!」って会話が多い。学校の同級生たちとはエライ違いだ。
中でも、やはり上手い連中は高校生なのにバンドをかけ持ちしてた。スケジュールは30分刻み。結構過密だ。私も縁あってYAMAHAのアンサンブル教室へ通うようになってた。基礎も何にもできていなかったので、途端に基礎練習メニューを命じられた。来る日も来る日も、それに明け暮れた。毎日深夜まで。当然学校での時間は、睡眠に充てられる事に。テクニックの向上と反比例して成績は急降下・・・。段々立つステージも変化していく。他校の文化祭を始め、有名企業のパーティー等々。

特に24時間テレビ。テレビ新潟(現Teny)が初めてを中継するとあって、2日間仲間のバンドと共にステージを勤める事になった。炎天下で、時間枠の隙間を埋める役目だったが充実してた。この頃から、流石に私のバンド活動を批判する声は、殆んど聞かれなくなった。しかし、「燃える下心」はすっかり置き去りにされ、毎週日曜日は10:00~18:00の間、窓などひとつも無いスタジオで過ごしていた。女っ気まったく無し。

さて、例のPOPCON。いよいよ高校3年だし、YAMAHAの期待もあるようだ。アレンジは、当時チャゲ&飛鳥のベーシストだった人。どう考えても普通じゃないよな。こんなに楽しい連中、充実した時間。これが仕事になったら・・・。最高だな!と考えるようになってた。今考えるとお恥ずかしい話だが、それまで夢なんて見たことが無かった私には初めての具体的な目標ができた時期だった。地区予選を順調に勝ち進み、中野サンプラザへ。関東甲信越大会だった。しかし、高かった下馬評とは裏腹に何の賞もGetできなかった。一気に押し寄せる虚無感を引きずりながら帰りの新幹線では、それでも目前に迫った高校卒業後の現実より夢の話で盛り上がった。
ここで大どんでん返し。YAMAHAの企みは、なんと佐藤弥生本人のみをデビューさせたいという意向だった。バンド丸ごとじゃ金かかるもんね。ある日、彼女以外の我々メンバーは別室へ呼ばれ事情を聞かされた。「YAMAHAとしては彼女だけで行こうと思ってる。アレンジャーに新田一郎(元スペクトラム)か鷺巣詩郎(Misiaのアレンジ・作曲)、後藤次利(おにゃんこもやった超有名ベーシスト)が挙がってる。だから君達は降りてくれ。」いつもは冷静な、このバンドを一番最初から切り盛りしてきた川上君が一番怒ってた。私は、かえって冷静になれた。大人って汚ぇ~!って思い知らされた瞬間だった。

2005年3月24日木曜日

「回想録Vol.3」

ある程度弾けるようになるまで、それ程時間はかからなかった。聞き取れなかった音も聞き取れるようになる。聞き取れた音は何とか再現できるようになって来る。同級生が家に遊びに来たとき、そのテクニックを披露して見ると反応は意外にも冷ややか。う~ん、じゃこれはどう?って、当時流行りの曲をやってみる。するとすごい!ときた。なるほど。一般人ってそんな感じね・・・。
程なく学校ではくじ引き大会。何のって、学級委員を決める為。運が良かったのか悪かったのか、当たってしまった。目出度く学級委員だ。で、各クラスから同じように当たってしまった面々が集まる。そこで更にくじ引き。私の手には、なぜかまた当たりくじが・・・。

暗雲はそっと近づいて、気が付いたら頭上に来ていた。無責任で非協力的な同級生。妙な責任感で張り切っていた私と衝突も多くなってきた。全校集会の時には野次が飛んできた事もあった。頭にきてマイクで「言いたい事があったらハッキリ言えよ!」決定的なことをやってしまった。以後、クラスで私と口を利くものはいなくなった。所謂シカトってやつ。学校での時間がとても長く感じる。つまらない。そして、張り切っていた最初の文化祭は、寂しくフォークソングの伴奏をすることに。

この頃から割りと頻繁に万代シティのYAMAHAに通うようになった。そこで普段は触らせてもらえないショーウィンドウに飾られたベースと出会う。いても立ってもいられない衝動に購入を決意。しかし、悲しいかな16才の少年にはあまりにも高額なプライスが。しかし、もはや「どうやって手に入れるか?」しか頭に無い。学校で禁止されているバイトをやった。冬休みは郵便配達。春休みは鉄工所で鬼社長の付き人。長期休みを楽しむ友人たちが、何故か羨ましくなかった。結果、約3ヶ月で13万円作った。それまでの間、他の人にそのベースを触られては大変なので、店員に「お取り置き」してもらい、毎週日曜になると面会に行って気が済むまで弾かせてもらってた。最後の給料を受け取ると、その足で買いに行った。


その頃、店員ともかなり親しくなり、主任さんから声をかけられた。「君、バンドやってみないか?ほら、あそこにメンバーを探しに来てる連中がいるんだ。年も同じだし、どうだい?」頭上にあった暗雲が晴れてきたのはこの事がきっかけだった。話してみたらすぐに意気投合。ギターの彼はお父さんが教員をやってるらしい。えっ!?それ中学生の時の技術の先生じゃん。そんな訳で、East&Westというコンテストに応募。当然、あえなく予選落ち。しかし、そこで驚いたのは、優れたミュージシャンの多かった事。そして、その目がとても輝いていた事。既に同級生たちに見切りを付けていた私には新鮮だった。恥も外聞も無い。とにかく自分から話しかけた。友達になりたかった。その中で、コンテストといってもコピー全盛の時代にオリジナルソングを歌う女の子が目に入った。佐藤弥生。凄い!大学生をバックメンバーに従えてる。「あの子と一緒にバンドやりたいな。」って言ったら「そんなの無理だよ。」またそんな声がとんできた。しかし、私の耳には聞こえない。コンテストで出会ったメンバーとセッションを繰り返してるうちに何とかメンバーチェンジの多い彼女のバックバンドに参加することができた。コンテストに参加するらしい。えぇっ!Popcon!なんで?バンドでアレンジしないの?ふーんプロがアレンジしてくれて、それをやればいいの。録音は?えっ?レコーディング?!じゃ、一般の参加者って「刺身のつま」ってやつ?何の為のコンテスト?私はこんなところにいて良いんでしょうか・・・。

2005年3月22日火曜日

「回想録Vol.2」

中学生活も終盤に近づき、「高校に行ったら何やる?」と言う話題が必ず花を咲かせる。「ベースやってみようと思うんだ。」と私が言うと十中八九「えっおまえが??」と言われる。まったくイメージに無いらしい。ほっとけ!


で、受験当日すべてが終わって帰路に着く。しかし、そのまま帰る気になれない。ずっと歩きながら「あの問題はこうだった。あーだった。」と言いながらだらだら歩く。一切が終わったある種の達成感からか時間が気にならない。一行は新潟市万代シティへ。ボーリングでもしていこうという事になり、その前に2FにあったYAMAHAへ。そこにはキラキラと輝く素敵な楽器達がいっぱい。楽器なんて全く無知だった私は、見渡して最初に目に飛び込んだあるベースに手を伸ばす。「弾いてみますか?」と女性店員さんが声をかけてくれた。「いえいえ弾けませんから。」とは言えずに気が付いたらそのベースを手渡されていた。結構重いもんだな。弦ってこんなに太いんだ・・・。よし!無事合格したらこれにしよう!そんな事を想像してると、抑えきれずににやけて来る。一向に帰ってこない息子を心配する母親の胸中は私には届かなかった。


翌々日、無事に合格した私はその一目ぼれしたベースを手に入れた。うれしい!叫びだしたくなるような、恥ずかしいような。想いを寄せてた女の子に思いが通じた瞬間のような。もう、毎日抱いて寝たっけ・・・。別に汚れてもいないのに毎日ポリッシュで磨いて、用も無いのにケースから出したり入れたり。そう、ランドセルを買ってもらった幼稚園児のように。


程なくして、近所に住んでる従兄弟から、「音楽やるんだって?だったらこれを聞いておいたほうが良い。」と奇妙なデザインのジャケットを見せてもらった。それがこれ。山下達郎「Go Ahead!」今見ても不思議な気分になります。これじゃ一般ウケしないわなぁ。平凡にも明星にも出てないぞ。でもね、な~んか耳に残るんですよ。こんなサウンド今までに聞いたことが無い。今度もう一回遊びに言ってカセットに録音してもらおう。そしたらナント5月に新潟で達郎さんの初Live!折りしも「Ride no Time」がブレーク寸前だった。それまでに経験したLiveと言えば庄野真代(最後はバラードでしっとりと終わる。)、オフ・コース(チケットが高額なのに90分で終わり。)、TOTO(3日間耳鳴りが続いた。)がいい所。延々と3時間ブッ通しのLive、しかも反応がいい事に気を良くしたのか、約30分の時間オーバー。ベースで延々とチョッパーソロをやるのも初体験。テープレコーダーを忍ばせて隠し録りした。終わってすぐに自転車を飛ばして家に帰り、目に焼き付けた映像をテープで確かめながらすぐにやってみる。ブチッ!ブチッ!プスン・・・。全然音にならない。


その日以来、何かに急き立てられるように弾きまくった。血豆もできた。水ぶくれもできた。指先は完全に打撲傷状態。そして、日を追うごとに少しずつ音になってくる。「まだまだ。もっともっと。」腹も空かない。眠くもならない。高校生活が始まり、最初にやるのは自己紹介。必ず何人か「ギターやってます。」「ドラムやってます。」なんて輩が現れる。休み時間に、「ねぇ、一緒にバンドやってみないか?」と話しかけ、多いに盛り上がった。目指すは秋の文化祭!できたばかりの高校で第一期生なので、前例も無い。いいのいいの前例なんて俺達が作る!で、みんなどんな音楽聞いてるの?なに?NSP?オフ・コース?長渕剛?おまけに西城秀樹???「今、マクセルのCMやってる山下達郎って良いと思わない?」って言ったら、「え~気持ち悪い。」と一蹴された。違うよ!おまえらが解んないだけよ。私はこの時期毎日平均8時間以上練習してた。段々指先も痛くならなくなってきていた。


しかし、この頃から「燃える下心」に静かに暗雲が近づいてきていた・・・。~続く~

2005年3月21日月曜日

「回想録Vol.1」

2番煎じですが、私のここまでの音楽に関する回想録なんぞ。
そもそも音楽なんて嫌いだった。折角母親が積み立てまでして買ってくれたKAWAIの電気オルガンは、私の必死の抵抗で弟がイケニエに。聞くのは好きだったんだけど。中学生の時、折りしもフォークソングブームで「えっ!?おまえまで・・・。」という感じで”モーリス持てばスーパースター”状態でした。でも音楽なんて、正確に言うと音楽の授業なんて大嫌い!リコーダーを忘れては立たされ、正座させられ散々でした。一番堪えたのは「明日、新しい曲をやるから罰として最初にやりなさい。」と言われた事。曲は「こきりこ節」。未だに悪夢の曲!以来音符が大嫌いに・・・。しかし、今思うと音符の読み方を説明できたセンセイはいなかったなぁ。おかげで音楽の成績はずっと「2」のまま。

そこへ、ニューミュージック・ブームが訪れた。それまではフォークロックなんて言われてたのに、明らかに違う、なんかフォークみたいに湿ってない。そう、もっとカラッとした感じで。その曲とは、「飛んでイスタンブール」庄野真代。

女性シンガーでは私にとって未だにダントツです。Liveにも行きました。ソロになったばかりの大橋純子も良かった。音楽って素敵かもしれないと思い始めていた・・・。また、当時は音楽番組も全盛期で、「ザ・ベスト10」や「夜のヒットスタジオ」等、固唾を飲んで見るようになっていたっけ。気が付けば「高校に入学したら何か楽器をやろう。」と決心していた。どうせやるなら目立つのがいいな。そうだ!ドラムがいい!
しかし、ある日「東京音楽祭」が放映され、そこにはUSA代表で見たことも無いBANDが。テイスト・オブ・ハニー。黒人男女4人組みで、ヴォーカリストのジャニス・ジョンソン(女性)がセクシーに、しかも強力にうねるBeatを繰り出す。そして歌う。当時の私には全てが新鮮だった。でもあの楽器は何だろう?ギターより大きい。弦を巻くところ(ペグの事)も大きくてキラキラしてる。あぁ、そうかBassなんだ。なんてカッコいいんだ。うん!これだ!絶対にこれを手に入れよう!と。途端にドラムはどうでも良くなってしまった。こんなもの弾けるようになったら周りが私を見る目が変わるかもしれない。だって、フォークギターを弾いてる奴の周りには女の子が集まってたもの。そう、きっかけは「燃える下心」。続く・・・。

2005年3月5日土曜日

忘れた頃に


今日、自分宛の郵便物が届いた。リットーミュージック?何か買ったっけ??何々読んでみたら以前答えたアンケートが掲載されたのでそのお礼の粗品と言う訳だ。何に使おうかこの手ぬぐい・・・。そのアンケートとは、ギタリストの宅録に対する意識調査。書店で現在発売中のギターマガジンを見かけたら180Pをご覧下さい。内容は、a>私のバンドは、バンマスがVS-2400を持ってるのでそれでCDを制作してます。新曲は宅録された状態で上がってくるので、それを各パート差し替えながらアレンジを仕上げて行きます。」となっています。このスタイル、フェイフェイにとっては、極当たり前の方法なんですが、他のバンドの皆さんはどうやって曲を完成させてるんでしょうか?