2005年3月25日金曜日

「回想録Vol.4」

バンド名は「佐藤弥生&チキンバスケット」。地元ではかなり知られた存在だった。当然、脇を固めるメンバーは実力者揃い。ギターの川上君は、その後あのクリスタル・キングに加入し、ドラムの関君は、今どうしてるんだろう?その他にもテクニシャンが多かった。あの頃は景気も良かったし、あちこちでイベントがあった。YAMAHAでも毎月「ハンドメイド・コンサート」なるものがあって、今となっては時効だけど打ち上げではかなり呑んだ。今までの人生であんなに呑んだ時期はないな。
あと、POPCON・ROOMってのがあって、学校が終わってから予定が無くても遊びに行くと必ず誰かがいて、タバコを吸いながら(高校生です)、段々次のコンテストのことから、将来の夢なんかも話す様になっていた。”無理だよ”とか”できないよ”なんて誰も言わない。「凄いね。やってみよう!」って会話が多い。学校の同級生たちとはエライ違いだ。
中でも、やはり上手い連中は高校生なのにバンドをかけ持ちしてた。スケジュールは30分刻み。結構過密だ。私も縁あってYAMAHAのアンサンブル教室へ通うようになってた。基礎も何にもできていなかったので、途端に基礎練習メニューを命じられた。来る日も来る日も、それに明け暮れた。毎日深夜まで。当然学校での時間は、睡眠に充てられる事に。テクニックの向上と反比例して成績は急降下・・・。段々立つステージも変化していく。他校の文化祭を始め、有名企業のパーティー等々。

特に24時間テレビ。テレビ新潟(現Teny)が初めてを中継するとあって、2日間仲間のバンドと共にステージを勤める事になった。炎天下で、時間枠の隙間を埋める役目だったが充実してた。この頃から、流石に私のバンド活動を批判する声は、殆んど聞かれなくなった。しかし、「燃える下心」はすっかり置き去りにされ、毎週日曜日は10:00~18:00の間、窓などひとつも無いスタジオで過ごしていた。女っ気まったく無し。

さて、例のPOPCON。いよいよ高校3年だし、YAMAHAの期待もあるようだ。アレンジは、当時チャゲ&飛鳥のベーシストだった人。どう考えても普通じゃないよな。こんなに楽しい連中、充実した時間。これが仕事になったら・・・。最高だな!と考えるようになってた。今考えるとお恥ずかしい話だが、それまで夢なんて見たことが無かった私には初めての具体的な目標ができた時期だった。地区予選を順調に勝ち進み、中野サンプラザへ。関東甲信越大会だった。しかし、高かった下馬評とは裏腹に何の賞もGetできなかった。一気に押し寄せる虚無感を引きずりながら帰りの新幹線では、それでも目前に迫った高校卒業後の現実より夢の話で盛り上がった。
ここで大どんでん返し。YAMAHAの企みは、なんと佐藤弥生本人のみをデビューさせたいという意向だった。バンド丸ごとじゃ金かかるもんね。ある日、彼女以外の我々メンバーは別室へ呼ばれ事情を聞かされた。「YAMAHAとしては彼女だけで行こうと思ってる。アレンジャーに新田一郎(元スペクトラム)か鷺巣詩郎(Misiaのアレンジ・作曲)、後藤次利(おにゃんこもやった超有名ベーシスト)が挙がってる。だから君達は降りてくれ。」いつもは冷静な、このバンドを一番最初から切り盛りしてきた川上君が一番怒ってた。私は、かえって冷静になれた。大人って汚ぇ~!って思い知らされた瞬間だった。

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